2006/07
全電子式テレビジョン君川 治 14


 電気は他の分野に比べて新しい技術なので、欧米での発明・発見とわが国への技術導入の時間的な差は少ない。更に自主技術開発が進み、八木アンテナやTYK式無線電話装置のように世界に先駆けて開発された技術成果がある。しかし、テレビは欧米の発明と思っている人が多いと思う。
 写真は世界初のテレビジョン映像となった「イ」の字を顕彰するNHK浜松放送会館のテレビ放送開始記念碑。
 高柳健次郎は浜松市の東部、天竜川に近い貧しい家庭で生まれた。自伝によると、尋常小学校の成績は良くないが、習字が上手く、機械類には子供のころから強い興味を抱いていた。手作模型や凧つくりの工夫なども素晴らしかった。
 この光る才能が地域の篤志家、村長、教師などに認められる。父親は尋常小学校で終わらせるつもりが皆の支援で高等小学校に進み、暖かく指導してくれた教師にあこがれて教員になろうと志す。準教員養成所、静岡師範、蔵前高等工業学校の工業教員養成所と進んだその過程で、本人の希望は教師から電気の技術開発へと変化していく。
 卒業の際の教授の訓話が高柳を動かした。「10年後、20年後に役立つ技術を探せ、同じことを10年、20年やれば必ず一角のエンジニアになれる」と。
 高柳は神奈川県立工業高校の教師をしながらアメリカ・イギリス・フランス・ドイツの電気関係雑誌を読み漁った。勿論、その為の語学の勉強に塾や教会などに通った。それらの雑誌から、ラジオ放送で遠くから無線で声が送れる、ドイツでは無線で写真を送受信する電送写真を研究している、などの先端情報を入手した。
 音声や写真が無線で送れるなら、映像だって無線で送れる理屈ではないか。高柳は研究テーマを「無線遠視法」と命名した。それから浜松高等工業に移って、テレビジョン開発の本格的な研究が始まるのである。
 テレビジョンの研究開発は、日本の高柳健次郎のみが行っていたわけではなく、アメリカや欧州各国の技術者も研究していた。彼らの研究は映像を電気信号に変換する方法として、円盤を回転させる方式、鏡を振動させる方式など全て機械式走査であった。高柳は走査線数を増やして且つ明るい映像を得るためには、機械式では実現不可能との理論的検討により、全電子式1本に絞って研究を進める。
 大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御された日に、ブラウン管にいろはの「イ」の字を映し出すことに成功した。更に昭和5年に積分方式撮像管を発明し、昭和10年には全電子式テレビジョンを完成して、今日のテレビジョンの基礎技術を確立した。
アメリカRCAのツボルキン博士が、高柳とは全く別個に電子式のテレビジョン方式を研究していた。ブラウン管を使用した映像表示及び蓄積方式撮像管(アイコノスコープ)を発明して日本に特許申請するものの、既に高柳健次郎の発明が特許としてあるのにビックリするのである。
 しかしせっかくの発明も実用化開発は太平洋戦争で中断し、戦後はGHQにより軍事技術につながるとして研究中止とされたため、テレビ放送の開始は昭和28年(1953)まで待たなければならなかったのである。



筆者プロフィール
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気部門)




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